2013年2月26日火曜日

Blogデビュー

前身の南足柄剣友会HPでは、「管理人日誌」として稽古や指導などで感じた事や、学んだ事等を綴って来ました。

この度、先輩の助けを受け、Blog化しました。

最近、なかなか更新出来ていませんでしたが、今後も、感じた事や悩み?など、投稿していこうと思います。

「独り言」や、「日記」?みたいな感じになるかも知れませんが、読んで何か有りましたら、コメント頂けたらと思います。

宜しくお願い致します。

2013年2月24日日曜日

剣道の気品

2012.6.25

剣道を修行する上に、種々の目標を立てることができようと思う。
昔から「大強速軽」ということがある、これなども誠によい教えで、大きい、強い、早い、軽妙な剣、それぞれ修行の目標となるものである。
すなわち、この意味から「気品」ということも剣道修行の大切な一目標になろうかと思う。
強いということも、勿論重要なことであるが、強いだけでは物足りない。
「強い剣道」であると共に「気品ある剣道」でありたいものである。
あの人の剣道には「気品」があるとか無いとかは、誰にも自然に感じられるものであるが、然らば、その気品とはどんなものか、という段になると、容易に言いあらわし難い。
「気」を花にたとえれば、「気品」はその薫りのようなものではあるまいか。
あるいは心を光になぞらえれば、「気品」はそのうつろいのようなものではあるまいかと思う。
花鮮やかならざれば薫りを得がたく、「光」明らかならざれば、そのうつろいを望み得ないと同様に、気品は正しい心、澄んだ気から、自然に発する得もいわれぬ気高さである。
何事によらず、真剣になっている時ほど、気高いものはなく、三味の境地、無念無想の境地に入り込んだ時ほど気品あるものはない。
結局、真剣を離れて気品は得られぬものである。
「一本の稽古」もいやしくもせず、ただ真剣、ただ一心、その心掛けがあったら求めずして上達し、求めずして「気品」ある稽古となるは、請合いである。
斎戒沐浴、神の御前に出るが如き厳粛なる気持ちをもって、日々の稽古を真剣に励みたいものです。
「端正」ということも、気品を養う上に大切な要素の一つである。
「心が端正」でなければ、気品は添わない。
徒らに勝敗に拘泥するとき、品が悪くなる。
私心、邪念にとらわれて、稽古に無理がある中は気品が添わない。
形の方面よりいうならば、稽古着(剣道着)や道具(剣道具)の着け方が正しくなければ、品は添わない。
姿勢の悪いのや動作の粗野なものも品を傷つける。
剣道は「礼に始まって礼に終わる」といわれるが、礼儀を離れて気品はない。
斯く段々に考えてくると、心も形も、共に正しく、互いに、相い助けるのでなければ、真の正しい立派な剣道、気品ある剣道となることは出来ない。
「心正しければ剣また正し」というのも、この意味に外ならないのである。
気品を養う上において「気位」というようなことも考えられる。
即ち、戦わずして敵を呑む「気位」、遂には宇宙を呑吐する程の気位に至って、いよいよ気品は高まるのである。
さらに申したいことは、剣道を単なる「竹刀打ち」と考えている中は、本当の気品は生まれないということである。
この道は「天地自然の理法」に貫通する至高の大同であることを悟って修行の上にも理想をもって進むことが肝要である。
理想ある剣道と、然らざる剣道とでは、気品の上にも、「天地雲泥」の差が生じてくる。
しかし無理に気品をつけようと気取ってみても本当の気品にはならない。
気品は朝に求めて夕に得られるものではない。
絶えず心を練り気を養い、心と技とが進むにしたがって、自然に備わるべきものである。
奥ゆかしき気品を漂うところ、人格そのものに高き香り薫(くん、カオリグサ)じ、明るき光りうつろい、誰しも自ら湧き起こる尊敬を禁じ得ないものである。
折れず、曲がらず、鉄おも両断する切れ味と、にえ、におい、言うに言われぬ気品をもつ名刀の如く、願わくば、剣道においても「強さ」と「気品」の、両者を併せ得たいものである。

捧ぐ

2011.11.6

平成23年6月4日 午前4時32分 当会会長 小林栄一先生(89歳)ご逝去

我らが師 小林栄一先生に捧ぐ

ふとした瞬間、先生の穏やかなお顔が瞼に浮かぶ。

もう、お話出来ないのだな。笑って頂けないのだな。叱られたり出来ないのだな。

寂しい限りです。
後年、先生と面を着けての稽古を戴く機会は数少なくなってしまったけれど、教わった基本通りに真っ直ぐに攻め入り、打突を放つ。
若く、速く、遠くから放つ僕らの打突は、先生の面や小手を叩くことが出来る。
それでも、当たってしまうから詰まらない。とは思わない。
時間の限り、真剣に、先生への打突を狙う。

「小手なりっ!」「胴!!」

先生の竹刀が走る。

打たれた。この打突も、良い感じにスピードも有り、真っ直ぐに攻めての打突だったのに、「パカンっ」という乾いた音のする見事な打突。

参った。さすが、師匠(せんせい)だ。やはりまだまだ僕らの敵うところでは無いのだ。

稽古を戴く度に、毎回そう思ったものだ。

 背が高く、ダンディーだった先生。胴着・袴や防具の着装にはよく注意もされたし、手ずから直されたりもした。
剣友会の創立30周年、40周年の記念大会では、紋付袴で演武をやらせて戴いたが、この紋付袴の着け方もなかなかに難しい。

やはり、先生に教わり、面倒を見て頂いた。

ある日、道場連盟の賀詞交歓会に出席する先生のお供をすることになった。
先生はキチンとした正装をされており、僕らはジーパンはさすがにマズイと、正装っぽい私服で臨んだ。
結果・・・怒られた(^^ヾ
服装や見た目も、その人の品格を表すもの。その場には、その場に相応しい格好が有る。

剣友会では、小林先生が先生。僕らも、先生と呼ばれる年齢になってしまった。
僕らの中では、頂点に小林先生という、僕らに剣道を教えてくださった先生が存在しており、僕らはその1段下で、先生の下で自己の稽古と、指導を学ばせて戴いているという感覚なのだ。

ところが、小林先生の中では、すでに先生も我らも、同格で、剣友会で子供達の指導にあたっている。
そのように思ってらっしゃったようで、度々、「先生」と1段上げる僕らと、同格なのだと並列に物事を考える小林先生との中でお互いを尊重・敬愛し合戦みたいな会話になったものでした。

自分の教え子を、成長したと認め、喜び、同列と見なす先生の度量や器の大きさは、やはり、僕らの目指す師匠(せんせい)でした。

先生、見てらっしゃいますか?聞こえてますか?

また、先生と、お話したいです。先生と一緒に、剣道したいです。しかし、叶いません。

こんな時、先生だったらどう思われただろうか。先生だったら、どうしただろうか。そんな風に自問自答する時、僕らは、瞼の中で、先生とお逢いする事が出来ます。思い出す事が出来ます。

数多く、先生から言われた言葉、教えて戴いた事、先生を見てきて、傍で過ごさせて頂いて、記憶の奥底に先生の魂を受け継いでいます。

師匠(せんせい)への感謝を忘れずに、一瞬一瞬、一日一日を、基本を忘れずに真っ直ぐ歩いて行こうと思います。

小林栄一師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

古き習慣

2010.12.31

12/29、床屋に行きました。
母から、「少し伸びて来たから行ったら?」と、言われたので行きましたが、いつもなら、あと半月後くらいが切りに行くタイミング。
しかし、特に反意無く、床屋に行きました。
新年を迎えるにあたり、年末までに身奇麗にする。
これってお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さんの時代以前からの習慣と言うか、文化なのでは無いかな?
大掃除は、学校でも会社でも自宅でも、行う年末の鉄板行事。
年末には自家用車も洗車する人が多く、ガソリンスタンドも激混み!
元旦には朝風呂で身を清めてから新年の挨拶をします(管理人宅だけか?)
当たり前の感覚でいたけど、時代は流れ、最近はそういった感覚も少しずつ薄れ始めているのかな?
床屋さんも言っていました。
昔は、12月15日~31日までお客さんが集中し、逆に1月にはほとんどお客さんが居ないくらい、それくらい年末に床屋に来る人が多かったと・・・。
まあ、良し悪しで、上記の習慣・文化が薄れた事により、集中してお客さんが来る事も和らいだけど、1月もそこそこ平均してお客さんが来てくれるらしい。
だから、悪い面ばかりでは無いのかも知れません(^^)

先日、中学生に「年末は年賀状も書かなくちゃいけないし、忙しいよな!」と、言ったところ・・・
「年賀状は来た人にだけ出すので、年末は忙しくないです!」と、答えが返って来ました。
「ええっ!学校の担任の先生や、小林先生にも年賀状、書いていないの???」
管理人が子供の頃は、母に字が汚いと激怒されながら、必死に年賀状や暑中見舞いを書いていたものでした。
床屋さんのお子さんも、同じく、来た人にだけ書くのだと聞きました。
相手も同じく来た人にだけ出すのだとしたら、少しずつ、賀状のやり取りなど、無くなって行くのでしょうね・・・。
そう言えば、管理人のから出している子供への年賀状は2~3枚なのだと、パソコンの住所録を見直して、少し驚きました。
管理人は剣道関係の先生方や職場など、結構出すので、来ないなら来ないで楽では有るけど、時代は変わったのだな~と実感・・・。
さらに、とある中学生の立礼を見ていて、ゆっくりした礼、止まる時間は2~3秒、また戻りもゆっくり。
「・・・礼ってのはパッと礼してしっかり止まり、またパッ戻るものなんじゃ無いか?」
「挨拶とは、一挨一拶(いちあいいちさつ)という禅宗の問答から来ている言葉なのだ」

* 一挨一拶(いちあいいちさつ):「挨」は心を開くとか接近する、「拶」はせまる、近づくという意味

ここまで話して、問答と言うのが分かるだろうか・・・。現代の子には問答を説明する分かり易い例えが無い。
管理人が子供の頃は、「一休さん」で問答をするシーン(「そもさん!」「せっぱ!」)が有りましたし、映画「ファンシィダンス」(本木雅弘/鈴木保奈美)で本木雅弘扮する坊さん役がやはり問答をする場面が有りました。
これらを観て無い子供達には、問答と言う言葉も分かりづらいでしょう。

さて、問答とは、師が弟子に、その成長を確認するため、質問を出し、それに答えるというものです。

「そもさん(問題を出すよ?)」

「せっぱ(お答えします)」

弟子が修行によりどのレベルまで来ているか、またはその日の体調はどうなのか、そういったことを問答により感じ取る。
それゆえ、師匠の質問に対して、間髪置かず答えるのが問答のやり取り。
そこから来たのが挨拶なのだから、ゆっくりのんびりの礼では違うのでは無いか・・・。

まあ、そんなこんなな年末の出来事を通し、昔の習慣や文化が薄れて来てるのだな~と実感した2010年12月でした(^^)
「一休さん」「赤胴鈴之助」「六三四の剣」は放映して欲しいですね(^^)

上記を子供達に強制するつもりは皆無です。
ただ、こうした事が有り、こうした意味が有る。それはいずれ機会が有れば伝えようと思います。

足し算・引き算

2010.12.30

クリスマスが過ぎると、稽古の機会は少なくなりました。
多くなったのは忘年会などの飲み会・・・。
管理人はお酒が飲めませんが、お酒の席は好きなので可能な限り出席します。
剣道では、稽古を第一道場、その後の飲み会を第二道場と言ったりします。
稽古では無いのだが、そういった稽古の後の飲み会で、先生方からアドバイスを頂いたり、
稽古場では聞けなかった有益な話が聞けたりするからです。

さて、年末に感銘を受けた先生のお言葉です。

「放てば満る」・・・何かを得ようと思うなら、何かを捨てなければならない。
現状の管理人に当てはめるなら、6段を取得したいと思うのなら、自分本位の稽古や理由を付けては楽をしている気持ちなどを捨てないと、放たないと得る(満る)事は無い。
そういった意味でお話戴きました。
また、別の日の稽古にて、「クマにはスピードは求めるものでは無い。もっと大きく構えて溜めて溜めてズバンって打てばそれで良いのだ」と、教えを受けました。
聞きながら、そうは言うけど、必要なスピードって有るんじゃ無いか?事実、スピードの有る相手には崩されるぞ?それに勝つには、同程度のスピードもしくは、瞬間的なスピードが必要なのでは無いか?などと思ってました。
しかし、その日の稽古の飲み会にて、違う先生から、肉離れをした僕を心配くださり、治ったとは言え、怪我をしないように身体と相談しながら稽古すれば良い。
無理な稽古はしないで良いぞ!と、仰って頂きました。
ご心配頂いたのは嬉しい事でしたが、「ありがとうございます。しかし先生、自分に足らないものを求めようとするならば、自分の身体に負荷を与え、酷使しなければそれは得られないのでは無いでしょうか?今までと同じように身体を使い、同じ気持ちで居たら身に付けられないのでは無いでしょうか?」
と、気持ちをぶつけてみました。

すると・・・「人生も剣道も足し算、引き算だと思う。足らないからと足してばかりいたら破裂してします。足した分、余計なもの、無駄な部分を引けば良いのだ。そうすれば、今の自分と同じであっても、成長した自分になれるのでは無いかな?」

衝撃的でした!!奇しくも、放てば満ると教えてくださった先生も、スピードを求めようとする稽古は違うと仰ってくださった先生も、足し算、引き算だと教えてくださった先生も、皆、同じ事を仰っていたのだと!!!

足すことだけでは無く、自分の無駄を無くし、余計な考えを捨てる事は、体力任せに足すことよりもより高度で、難しい事だと思います。
でも、そういう年齢、そういう段階に来ているのと教わった気がします。
高校生くらいまでは、足せるだけ足す、金平糖のようないびつな自分を、足し事で綺麗な大きな球にしていく事で良いと思います。
そうして、大きな大きな球を、今度は足したり引いたりしながら、無理無く、無駄無い完成形に、生涯掛けて形成していく。

早く来年にならないかな~(^^)稽古がしたい!(稽古始めまでに出来る事は自宅や頭の中でしていくぞ!!)

コツ

2010.12.23

「GET SPORTS」と言う深夜番組で、「フルタの方程式」コラボ企画というのをやっていました。
その中で、元東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督の古田敦也さんが言っていた言葉に共感しました。

練習とは「コツ」を掴む事だ!!

なるほど!と、思いました(^^)
自分は普段、稽古で何を考え、何をやろうとしているか・・・。
今より面を速く打つには・・・。相手に打つとバレずに打つには何をするべきか・・・。
相手の動き、打ちに対して応じ技を上手く打つには・・・。速く抜けたい、打った後にアゴを上げずに打とう・・・。
イッパイ有りますが、これらは何なのか?
勝つために、上手くなるために、目指す動きをするためのコツ探し。
そうなのだ!見て盗む、聞いて実践する。自分なりのコツを掴むため。
だから、剣道は、稽古は、楽しいのだ!!
コツさえ掴んでしまえば面白いように出来なかった動きが、技が、出来るようになる!!!
勝つために、思う動きをするために、足らない部分は山ほど有る。
山ほど有ると言う事は、現在の自分がまだまだであるって事にもなるが、逆に思うと、コツを掴んでいけば、もっともっと強くなれるって事だ!
剣道の奥は深い。目指す頂きは遠いようで近く、近いようでまだまだ遠い。

さあ、コツを掴むため、稽古をしよう、工夫をしよう、考えよう、まずは行動しよう!!!

繋がり・思い出

2010.11.21

他にも更新しなきゃあいけない事有るだろ!って事は置いといて・・・(^^ヾ

土曜日、久々に立ち寄ったセブンイレブンにて、車の座席を倒して車載TVでDVD観ながらまったり一休みをしていたら・・・剣友会OGとそのお母さんに声を掛けられた(^^)
他愛の無い話や剣友会の話など、近況をお互いに話し、終始笑顔の時間が有った。
先輩、先生を見かけた時、気軽に声を掛けられる関係性、良いな~と思いました(^^)
まあ、中には見かけて「ヤベェ!気付かなかった事にしよう・・・」とかって関係も有るかも知れないけど・・・(^^ヾ
先輩、後輩、先生、教え子、多くの人間が、大きな年齢の間に存在している。
それらは全て、「南足柄剣友会」という繋がりの中に居る。
どんな世界も同じかも知れないが、一つの事をやり通す。辞めない事、これは非常に大きな事だと思います。
そりゃ、楽しい事、楽しい時ばかりじゃ無いかも知れない。でも、一つ一つ、その時、その時を越えて行くことは、とても尊い事だと思います。

剣友会は中学3年生までが会員となり、高校生以上はOB・OGとなります。
その後、指導者となり、先生、と、呼ばれる人も居るでしょうし、先輩、後輩と言う間柄を継続する事も有りますが。
中学3年の壮行会までやり通し、笑顔で挨拶を交わしたり話したり出来る関係を多く増やしていきたいと、改めて思いました。

基本生だった頃。高学年だった頃。中学生の稽古。礼儀や話し方。夏の合宿。辞めたいと言った事。話した数多くの言葉。
その時、その時、その人、その人で穏やかな事も、大きな波も、いっぱい、いっぱい有りました。
これらの事も、過ぎ去りし日々となれば、全て懐かしい、良い思い出となり、共有する全ての人が、懐かしく、笑顔で話す日々が来る。
剣道って良いな!剣友会で知り合えて良かったな!そう、思います。
剣道を続けるのか、続けられるのか。少し離れるか、ず~っと離れる事になるか。それは、人それぞれです。
何が良くて、何が正解かはその人の中に有る。
願わくば、小林先生のように、長く、永く剣道と一緒に、皆と共に剣道と関われる人生で在りたいと思います。

・・・何が書きたかったんだろう?何に心動かされたのだろう?
繋がりを感じられて嬉しかった。楽しかった。続けてくれた事がとても嬉しく温かかった。のかな?
TVでは、春高バレーをやっている。
皆、一生懸命だ!勝つために、チームの皆と心を合わせ。
一生懸命やったから。
だからこその良い繋がりが継続出来るのかも知れない。
一生懸命続けること。これが一番大切な事。それが一番思い出に残る事。

なんか分からんけど、今日も、明日も、・・・・・頑張ろう!!