2017年9月17日日曜日

先生

先生と呼ばれるようになって、どれ程経つだろう。

それなりに教えられる自信は付いた。

子供を見れば、自分の中のイメージとの相違点が見える。

それを伝える手段も、10人居れば10通り、100人居れば100通り。

ゆっくり、ゆっくり歩む子も居る。

急な坂道を歩く子も居る。

ふとした拍子に、急成長する子も居るし、足踏みを続ける子も。

自分の目指す夢に向かって、自分の目標を持って、1つ1つ課題をクリアしていく。

ゆっくりな道も、急いだ道も、行く末は同じ。同じ高みを目指してる。


自分も、そこそこの指導者になれたという自負を持ちつつ、子供を教える。

子供の疑問に答える。

しかし、突き詰めれば突き詰めるほど、教えれば教えるほど、右手の持ち方は。

素振りの仕方は。打った時、左手は伸びる?

自分の中に答えは在る。

在るが、そこに理論が、根拠が存在するか。

自分の信じる先生が仰っていたから。そうしていたから。

それはそれで、信じれば良い。

しかし、どうして?

それはなぜ?

悩んだところで答えは出ない。

今まで、どうしていたのだろう?

そう。「先生」に聞いていたのだ。

そして必ず答えを戴いていた。理論も根拠も有る答えを。

先生は亡くなられた。

もう、教えを乞うことは出来ないのだ。

もっと、もっと研鑽を積まなければ・・・。

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