先生と呼ばれるようになって、どれ程経つだろう。
それなりに教えられる自信は付いた。
子供を見れば、自分の中のイメージとの相違点が見える。
それを伝える手段も、10人居れば10通り、100人居れば100通り。
ゆっくり、ゆっくり歩む子も居る。
急な坂道を歩く子も居る。
ふとした拍子に、急成長する子も居るし、足踏みを続ける子も。
自分の目指す夢に向かって、自分の目標を持って、1つ1つ課題をクリアしていく。
ゆっくりな道も、急いだ道も、行く末は同じ。同じ高みを目指してる。
自分も、そこそこの指導者になれたという自負を持ちつつ、子供を教える。
子供の疑問に答える。
しかし、突き詰めれば突き詰めるほど、教えれば教えるほど、右手の持ち方は。
素振りの仕方は。打った時、左手は伸びる?
自分の中に答えは在る。
在るが、そこに理論が、根拠が存在するか。
自分の信じる先生が仰っていたから。そうしていたから。
それはそれで、信じれば良い。
しかし、どうして?
それはなぜ?
悩んだところで答えは出ない。
今まで、どうしていたのだろう?
そう。「先生」に聞いていたのだ。
そして必ず答えを戴いていた。理論も根拠も有る答えを。
先生は亡くなられた。
もう、教えを乞うことは出来ないのだ。
もっと、もっと研鑽を積まなければ・・・。
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