習工練(しゅうこうれん)・・・初めて聞きました。
級審査、市剣連剣道大会終了後、毎回、連盟の先生方で反省会を行います。
その席上で、山﨑会長からお聞きした言葉です。
剣道に限らず、先生から習った事を実際にやってみて、「おや?」と感じることが大切。
そして、「先生の言っている事に近づくためには、自分はどのようにすればいいのか…」
と工夫をし、それを練習する。
そういう意味のようです。
剣道用語にしては聞いたことが無い。しかし、柏木先生もご存知でした。
歴史上の人物の言葉のようです。
と、言うことで、私も習ったこの言葉を理解出来るよう、ネットで調べてみました(工夫)。
すると、下記の事が分かりました。
【習い・稽古・工夫】
剣道には「習い」「稽古」「工夫」の三つの要素が大事であり、」これを一体的に練り磨かなければならない。
これを三磨の位(さんまのくらい)という。
習ったことを、ただひたすらに稽古する。
身につけたところで工夫をする。
これをグルグルと車輪のように繰り返す。と、いうような教えです。
新陰流の教えで、新陰流とは、柳生新陰流の柳生宗厳の師、上泉信綱の流派のようです。
その中で、上記のように、習い・稽古・工夫とされていたが、剣道用語として伝わる中で、
習工練(しゅうこうれん)という、習い・工夫・稽古という言葉も出来たみたいです。
冒頭に書いたように、習った事を身に付けるためには、工夫が必要です。
言われた事、稽古の内容などをまず、頭に残す事にも工夫というか努力が必要ですから。
そして、出来るようになるための工夫・努力。
出来るようになったら、それを自分の剣道(自分の体格・剣風・性格など)に活かすための
工夫が必要。
その工夫・努力が、稽古。と、言うことになるのでしょう。
習い・稽古・工夫の「三磨の位(さんまのくらい)」は、「守・破・離」にも通ずる気がします(^^)
さてさて、ウチの子達は、「習い・覚え・工夫・稽古」を実践出来るでしょうか、楽しみです(^^)
2013年3月20日水曜日
2013年3月17日日曜日
H24年度 後期級審査会
H24年3月17日(日)、午前中は級審査でした。
頑張って練習した成果を出せた子、残念ながら足りなかった子。様々ですが、
合格した子には「おめでとう!」を贈ります。
文句無しの合格の子も居るけど、ギリギリ合格した子も居る。逆に、ギリギリの不合格も居る。
受かれば嬉しい。落ちれば悔しい。
けど、これは今日限りの事。
明日からは、受かった級の実力を落とさず、受かった級に恥ずかしくない剣道をしなくてはならない。
落ちた子も、落ち込むのは今日限り。明日からは次回を目指して足らなかったところを補おう。
和、おめでとう。
打てる。当たる。形も綺麗。でも、満足せずに、もっともっと速く、勢い良く動けるように、
足捌きを頑張ろう。もっともっと強い子に勝つためには、もっともっと大きな声を出さなきゃね(^^)
大和、おめでとう。
大きな声はだいぶ出せるようになったね(^^)
抜き胴も、タイミングも良いし、もう少し正しく、強く打てれば1本になるね。
でも、面が当たらない。面は、手で打つのでは無く、竹刀で打つのです。
両手・両腕を大きく振っても、竹刀の剣先が相手の面に届いていない。
どうやって、両手・両腕を動かせば竹刀の先を振ることが出来るのか、
次回の稽古から考えて稽古してみよう。
分からなければ聞いてください(^^)
亮、おめでとう。
今日の結果は練習の成果です。
正直、手も足も身体も動くほどにバラバラになり、相手に打っても当たらない。
あの状況から、ここ2回程の稽古では当たるようになり、身体が崩れなくなった。
驚きです(^^)
ここからです。さらに、小さな打ちでも、2本、3本と連続して技を出しても崩れないように、
打ち込み、掛かり稽古を積みましょう。
次は試合で勝つ事だね(^^)頑張れ!
革、おめでとう。
良いところが出ていたね(^^)1人目、2人目共に、初太刀(1本目の打ち)から良い面が打てていました。
次は1級です。中1の夏には、1級を、10月には初段です。
これからいっぱいいっぱい頑張って、精神的にも強くなりましょう(^^)
涼太、残念だった。
けれど、ギリギリ受かるより、次回、バッチシで受かってやろう!
今月の試合が終わったら、日常の歩き方、重心の置き方、剣道の構え、飛び方、
見直して、膝に痛みの出ない、新涼太の剣道を一緒に作りましょう!
声は、長く大きく、いつでも出せるようになろう。先輩や先生の目指す声を真似たら良いかも。
打ちは、全体的に出が遅い。
相手が来る、来ない。とか待つよりも、誰にも追い付けないようなスピードで、自分から間(ま)を
攻めて、誰にも追い付けないようなスピードで技を出しましょう。
それが、中学での当面、君の目指す剣道かと思います(^^)
級審査、段審査は、自分が自分の剣道をどう思うかでは無く、他者(先生方)が自分の剣道を
どう見るのかというものです。
それだけに、今の自分はどこまで出来ているのか、今の自分はどう見えるのかを知れる
良い機会です。
また、同じ年齢や同じ級の子と自分の差を見れる機会でもあります。
皆で一緒に、頑張りましょう!!!
頑張って練習した成果を出せた子、残念ながら足りなかった子。様々ですが、
合格した子には「おめでとう!」を贈ります。
文句無しの合格の子も居るけど、ギリギリ合格した子も居る。逆に、ギリギリの不合格も居る。
受かれば嬉しい。落ちれば悔しい。
けど、これは今日限りの事。
明日からは、受かった級の実力を落とさず、受かった級に恥ずかしくない剣道をしなくてはならない。
落ちた子も、落ち込むのは今日限り。明日からは次回を目指して足らなかったところを補おう。
和、おめでとう。
打てる。当たる。形も綺麗。でも、満足せずに、もっともっと速く、勢い良く動けるように、
足捌きを頑張ろう。もっともっと強い子に勝つためには、もっともっと大きな声を出さなきゃね(^^)
大和、おめでとう。
大きな声はだいぶ出せるようになったね(^^)
抜き胴も、タイミングも良いし、もう少し正しく、強く打てれば1本になるね。
でも、面が当たらない。面は、手で打つのでは無く、竹刀で打つのです。
両手・両腕を大きく振っても、竹刀の剣先が相手の面に届いていない。
どうやって、両手・両腕を動かせば竹刀の先を振ることが出来るのか、
次回の稽古から考えて稽古してみよう。
分からなければ聞いてください(^^)
亮、おめでとう。
今日の結果は練習の成果です。
正直、手も足も身体も動くほどにバラバラになり、相手に打っても当たらない。
あの状況から、ここ2回程の稽古では当たるようになり、身体が崩れなくなった。
驚きです(^^)
ここからです。さらに、小さな打ちでも、2本、3本と連続して技を出しても崩れないように、
打ち込み、掛かり稽古を積みましょう。
次は試合で勝つ事だね(^^)頑張れ!
革、おめでとう。
良いところが出ていたね(^^)1人目、2人目共に、初太刀(1本目の打ち)から良い面が打てていました。
次は1級です。中1の夏には、1級を、10月には初段です。
これからいっぱいいっぱい頑張って、精神的にも強くなりましょう(^^)
涼太、残念だった。
けれど、ギリギリ受かるより、次回、バッチシで受かってやろう!
今月の試合が終わったら、日常の歩き方、重心の置き方、剣道の構え、飛び方、
見直して、膝に痛みの出ない、新涼太の剣道を一緒に作りましょう!
声は、長く大きく、いつでも出せるようになろう。先輩や先生の目指す声を真似たら良いかも。
打ちは、全体的に出が遅い。
相手が来る、来ない。とか待つよりも、誰にも追い付けないようなスピードで、自分から間(ま)を
攻めて、誰にも追い付けないようなスピードで技を出しましょう。
それが、中学での当面、君の目指す剣道かと思います(^^)
級審査、段審査は、自分が自分の剣道をどう思うかでは無く、他者(先生方)が自分の剣道を
どう見るのかというものです。
それだけに、今の自分はどこまで出来ているのか、今の自分はどう見えるのかを知れる
良い機会です。
また、同じ年齢や同じ級の子と自分の差を見れる機会でもあります。
皆で一緒に、頑張りましょう!!!
2013年3月5日火曜日
久々の稽古
今日は、月曜の小田原市役所剣道班の稽古に行ってきました(^^)
役所の剣道班の人が4~5人。あとは近隣の剣道愛好家。
だいたい10人~15人くらいの大人が集まります。
基本的な仕切りは剣道班が行います。素振りや基本、打ち込みはなかなかにキツイ(^^)
それでも、メンバーの入れ替わりは有れど、多人数での稽古が定着しています。
きっと、剣道班の先生方が分け隔てなく受け入れてくれる雰囲気。
そして、なにより稽古になる。と、いうレベルの高さが求心力となているのかと思います。
さて、僕はというと、昨年12月から、海外や国内を飛び回り、業務過多。
数回の稽古しか出来ていませんでした。
ぼちぼち、リハビリ気味の稽古が出来、ようやく稽古をしてもどこかが痛む事無く、
稽古出来る感じに上がって来ました。
稽古から遠ざかると、自分が何を気を付け、何を意識して攻め、打突し、
どんな内容をイメージして稽古していたのか、忘れない1つは有れど、全てを思い出せずに
いるような、記憶喪失に陥ったドラマの主人公みたいな気分になります(^^ヾ
稽古を重ねるごとに、1つ、1つ、思い出してきます。
もちろん、その日だけの思いつきも有りますが・・・。
そうした1つ、1つ、1回、1回の稽古を積み重ねる中で、稽古相手の同輩・先輩・先生方から
アドバイスや感触を戴きます。
そこで閃く(ひらめく)。
そこで気付く。
そうして手応えを感じては自己満足に喜び、次回の稽古への楽しみが出来ます。
そしてきっと、明日の稽古では、同じように試すが上手く行かずに落ち込む。
そして、また1つ、1つとプラスしていく。
その繰り返しをする事が稽古であり、そうする日々を過ごすことが、じわり、じわりと
自分を高めてくれる。
僕は、穏やかな性格だ。
B型なので、カッとする事は有っても、醒めるのも早い。
戦闘には向かないタイプだ。
それゆえ、稽古でも、試合でも、どう攻めれば良いのか、どんな気持ちで居れば良いのか、
分からなくなる。
しかし、最近は、1本取るために攻め、動き、打突する。
それが終われば、決まろうが決まらなかろうが、次の1本取るための攻め、動き、打突する。
この繰り返しなのだと、ようやく気付く。
攻める前に、攻めてる途中に、攻めた後に、打突の後に、休憩している暇など無いのだ。
そこに、空白の数秒、ボケっとしている数秒、心・身体・竹刀の動いていない数秒を作れば、
そこには、攻められ、崩され、打たれる。と、いう未来しか待っていない。
キツイが、負けるよりはマシだ。
今夜は、喜久雄先生に、竹刀で攻めるな、相手の竹刀を敵だと思うな。
と、言われ、剣先の中心を取られた時に、左手を締めると中心を取り返せる。
そんな事を学ばせて頂いた。
こればかりでは、やはり打たれる。
けど、引き出しの一つにはなった。
今の自分の攻めに、攻め方として1つ、加えてみようと思う。
次回の稽古が楽しみだ(^^)
忘れないようにするため、剣道ノートに書く前に、Blogに記す(^^)
役所の剣道班の人が4~5人。あとは近隣の剣道愛好家。
だいたい10人~15人くらいの大人が集まります。
基本的な仕切りは剣道班が行います。素振りや基本、打ち込みはなかなかにキツイ(^^)
それでも、メンバーの入れ替わりは有れど、多人数での稽古が定着しています。
きっと、剣道班の先生方が分け隔てなく受け入れてくれる雰囲気。
そして、なにより稽古になる。と、いうレベルの高さが求心力となているのかと思います。
さて、僕はというと、昨年12月から、海外や国内を飛び回り、業務過多。
数回の稽古しか出来ていませんでした。
ぼちぼち、リハビリ気味の稽古が出来、ようやく稽古をしてもどこかが痛む事無く、
稽古出来る感じに上がって来ました。
稽古から遠ざかると、自分が何を気を付け、何を意識して攻め、打突し、
どんな内容をイメージして稽古していたのか、忘れない1つは有れど、全てを思い出せずに
いるような、記憶喪失に陥ったドラマの主人公みたいな気分になります(^^ヾ
稽古を重ねるごとに、1つ、1つ、思い出してきます。
もちろん、その日だけの思いつきも有りますが・・・。
そうした1つ、1つ、1回、1回の稽古を積み重ねる中で、稽古相手の同輩・先輩・先生方から
アドバイスや感触を戴きます。
そこで閃く(ひらめく)。
そこで気付く。
そうして手応えを感じては自己満足に喜び、次回の稽古への楽しみが出来ます。
そしてきっと、明日の稽古では、同じように試すが上手く行かずに落ち込む。
そして、また1つ、1つとプラスしていく。
その繰り返しをする事が稽古であり、そうする日々を過ごすことが、じわり、じわりと
自分を高めてくれる。
僕は、穏やかな性格だ。
B型なので、カッとする事は有っても、醒めるのも早い。
戦闘には向かないタイプだ。
それゆえ、稽古でも、試合でも、どう攻めれば良いのか、どんな気持ちで居れば良いのか、
分からなくなる。
しかし、最近は、1本取るために攻め、動き、打突する。
それが終われば、決まろうが決まらなかろうが、次の1本取るための攻め、動き、打突する。
この繰り返しなのだと、ようやく気付く。
攻める前に、攻めてる途中に、攻めた後に、打突の後に、休憩している暇など無いのだ。
そこに、空白の数秒、ボケっとしている数秒、心・身体・竹刀の動いていない数秒を作れば、
そこには、攻められ、崩され、打たれる。と、いう未来しか待っていない。
キツイが、負けるよりはマシだ。
今夜は、喜久雄先生に、竹刀で攻めるな、相手の竹刀を敵だと思うな。
と、言われ、剣先の中心を取られた時に、左手を締めると中心を取り返せる。
そんな事を学ばせて頂いた。
こればかりでは、やはり打たれる。
けど、引き出しの一つにはなった。
今の自分の攻めに、攻め方として1つ、加えてみようと思う。
次回の稽古が楽しみだ(^^)
忘れないようにするため、剣道ノートに書く前に、Blogに記す(^^)
2013年2月26日火曜日
Blogデビュー
前身の南足柄剣友会HPでは、「管理人日誌」として稽古や指導などで感じた事や、学んだ事等を綴って来ました。
この度、先輩の助けを受け、Blog化しました。
最近、なかなか更新出来ていませんでしたが、今後も、感じた事や悩み?など、投稿していこうと思います。
「独り言」や、「日記」?みたいな感じになるかも知れませんが、読んで何か有りましたら、コメント頂けたらと思います。
宜しくお願い致します。
この度、先輩の助けを受け、Blog化しました。
最近、なかなか更新出来ていませんでしたが、今後も、感じた事や悩み?など、投稿していこうと思います。
「独り言」や、「日記」?みたいな感じになるかも知れませんが、読んで何か有りましたら、コメント頂けたらと思います。
宜しくお願い致します。
2013年2月24日日曜日
剣道の気品
2012.6.25
剣道を修行する上に、種々の目標を立てることができようと思う。
昔から「大強速軽」ということがある、これなども誠によい教えで、大きい、強い、早い、軽妙な剣、それぞれ修行の目標となるものである。
すなわち、この意味から「気品」ということも剣道修行の大切な一目標になろうかと思う。
強いということも、勿論重要なことであるが、強いだけでは物足りない。
「強い剣道」であると共に「気品ある剣道」でありたいものである。
あの人の剣道には「気品」があるとか無いとかは、誰にも自然に感じられるものであるが、然らば、その気品とはどんなものか、という段になると、容易に言いあらわし難い。
「気」を花にたとえれば、「気品」はその薫りのようなものではあるまいか。
あるいは心を光になぞらえれば、「気品」はそのうつろいのようなものではあるまいかと思う。
花鮮やかならざれば薫りを得がたく、「光」明らかならざれば、そのうつろいを望み得ないと同様に、気品は正しい心、澄んだ気から、自然に発する得もいわれぬ気高さである。
何事によらず、真剣になっている時ほど、気高いものはなく、三味の境地、無念無想の境地に入り込んだ時ほど気品あるものはない。
結局、真剣を離れて気品は得られぬものである。
「一本の稽古」もいやしくもせず、ただ真剣、ただ一心、その心掛けがあったら求めずして上達し、求めずして「気品」ある稽古となるは、請合いである。
斎戒沐浴、神の御前に出るが如き厳粛なる気持ちをもって、日々の稽古を真剣に励みたいものです。
「端正」ということも、気品を養う上に大切な要素の一つである。
「心が端正」でなければ、気品は添わない。
徒らに勝敗に拘泥するとき、品が悪くなる。
私心、邪念にとらわれて、稽古に無理がある中は気品が添わない。
形の方面よりいうならば、稽古着(剣道着)や道具(剣道具)の着け方が正しくなければ、品は添わない。
姿勢の悪いのや動作の粗野なものも品を傷つける。
剣道は「礼に始まって礼に終わる」といわれるが、礼儀を離れて気品はない。
斯く段々に考えてくると、心も形も、共に正しく、互いに、相い助けるのでなければ、真の正しい立派な剣道、気品ある剣道となることは出来ない。
「心正しければ剣また正し」というのも、この意味に外ならないのである。
気品を養う上において「気位」というようなことも考えられる。
即ち、戦わずして敵を呑む「気位」、遂には宇宙を呑吐する程の気位に至って、いよいよ気品は高まるのである。
さらに申したいことは、剣道を単なる「竹刀打ち」と考えている中は、本当の気品は生まれないということである。
この道は「天地自然の理法」に貫通する至高の大同であることを悟って修行の上にも理想をもって進むことが肝要である。
理想ある剣道と、然らざる剣道とでは、気品の上にも、「天地雲泥」の差が生じてくる。
しかし無理に気品をつけようと気取ってみても本当の気品にはならない。
気品は朝に求めて夕に得られるものではない。
絶えず心を練り気を養い、心と技とが進むにしたがって、自然に備わるべきものである。
奥ゆかしき気品を漂うところ、人格そのものに高き香り薫(くん、カオリグサ)じ、明るき光りうつろい、誰しも自ら湧き起こる尊敬を禁じ得ないものである。
折れず、曲がらず、鉄おも両断する切れ味と、にえ、におい、言うに言われぬ気品をもつ名刀の如く、願わくば、剣道においても「強さ」と「気品」の、両者を併せ得たいものである。
剣道を修行する上に、種々の目標を立てることができようと思う。
昔から「大強速軽」ということがある、これなども誠によい教えで、大きい、強い、早い、軽妙な剣、それぞれ修行の目標となるものである。
すなわち、この意味から「気品」ということも剣道修行の大切な一目標になろうかと思う。
強いということも、勿論重要なことであるが、強いだけでは物足りない。
「強い剣道」であると共に「気品ある剣道」でありたいものである。
あの人の剣道には「気品」があるとか無いとかは、誰にも自然に感じられるものであるが、然らば、その気品とはどんなものか、という段になると、容易に言いあらわし難い。
「気」を花にたとえれば、「気品」はその薫りのようなものではあるまいか。
あるいは心を光になぞらえれば、「気品」はそのうつろいのようなものではあるまいかと思う。
花鮮やかならざれば薫りを得がたく、「光」明らかならざれば、そのうつろいを望み得ないと同様に、気品は正しい心、澄んだ気から、自然に発する得もいわれぬ気高さである。
何事によらず、真剣になっている時ほど、気高いものはなく、三味の境地、無念無想の境地に入り込んだ時ほど気品あるものはない。
結局、真剣を離れて気品は得られぬものである。
「一本の稽古」もいやしくもせず、ただ真剣、ただ一心、その心掛けがあったら求めずして上達し、求めずして「気品」ある稽古となるは、請合いである。
斎戒沐浴、神の御前に出るが如き厳粛なる気持ちをもって、日々の稽古を真剣に励みたいものです。
「端正」ということも、気品を養う上に大切な要素の一つである。
「心が端正」でなければ、気品は添わない。
徒らに勝敗に拘泥するとき、品が悪くなる。
私心、邪念にとらわれて、稽古に無理がある中は気品が添わない。
形の方面よりいうならば、稽古着(剣道着)や道具(剣道具)の着け方が正しくなければ、品は添わない。
姿勢の悪いのや動作の粗野なものも品を傷つける。
剣道は「礼に始まって礼に終わる」といわれるが、礼儀を離れて気品はない。
斯く段々に考えてくると、心も形も、共に正しく、互いに、相い助けるのでなければ、真の正しい立派な剣道、気品ある剣道となることは出来ない。
「心正しければ剣また正し」というのも、この意味に外ならないのである。
気品を養う上において「気位」というようなことも考えられる。
即ち、戦わずして敵を呑む「気位」、遂には宇宙を呑吐する程の気位に至って、いよいよ気品は高まるのである。
さらに申したいことは、剣道を単なる「竹刀打ち」と考えている中は、本当の気品は生まれないということである。
この道は「天地自然の理法」に貫通する至高の大同であることを悟って修行の上にも理想をもって進むことが肝要である。
理想ある剣道と、然らざる剣道とでは、気品の上にも、「天地雲泥」の差が生じてくる。
しかし無理に気品をつけようと気取ってみても本当の気品にはならない。
気品は朝に求めて夕に得られるものではない。
絶えず心を練り気を養い、心と技とが進むにしたがって、自然に備わるべきものである。
奥ゆかしき気品を漂うところ、人格そのものに高き香り薫(くん、カオリグサ)じ、明るき光りうつろい、誰しも自ら湧き起こる尊敬を禁じ得ないものである。
折れず、曲がらず、鉄おも両断する切れ味と、にえ、におい、言うに言われぬ気品をもつ名刀の如く、願わくば、剣道においても「強さ」と「気品」の、両者を併せ得たいものである。
捧ぐ
2011.11.6
平成23年6月4日 午前4時32分 当会会長 小林栄一先生(89歳)ご逝去
我らが師 小林栄一先生に捧ぐ
ふとした瞬間、先生の穏やかなお顔が瞼に浮かぶ。
もう、お話出来ないのだな。笑って頂けないのだな。叱られたり出来ないのだな。
寂しい限りです。
後年、先生と面を着けての稽古を戴く機会は数少なくなってしまったけれど、教わった基本通りに真っ直ぐに攻め入り、打突を放つ。
若く、速く、遠くから放つ僕らの打突は、先生の面や小手を叩くことが出来る。
それでも、当たってしまうから詰まらない。とは思わない。
時間の限り、真剣に、先生への打突を狙う。
「小手なりっ!」「胴!!」
先生の竹刀が走る。
打たれた。この打突も、良い感じにスピードも有り、真っ直ぐに攻めての打突だったのに、「パカンっ」という乾いた音のする見事な打突。
参った。さすが、師匠(せんせい)だ。やはりまだまだ僕らの敵うところでは無いのだ。
稽古を戴く度に、毎回そう思ったものだ。
背が高く、ダンディーだった先生。胴着・袴や防具の着装にはよく注意もされたし、手ずから直されたりもした。
剣友会の創立30周年、40周年の記念大会では、紋付袴で演武をやらせて戴いたが、この紋付袴の着け方もなかなかに難しい。
やはり、先生に教わり、面倒を見て頂いた。
ある日、道場連盟の賀詞交歓会に出席する先生のお供をすることになった。
先生はキチンとした正装をされており、僕らはジーパンはさすがにマズイと、正装っぽい私服で臨んだ。
結果・・・怒られた(^^ヾ
服装や見た目も、その人の品格を表すもの。その場には、その場に相応しい格好が有る。
剣友会では、小林先生が先生。僕らも、先生と呼ばれる年齢になってしまった。
僕らの中では、頂点に小林先生という、僕らに剣道を教えてくださった先生が存在しており、僕らはその1段下で、先生の下で自己の稽古と、指導を学ばせて戴いているという感覚なのだ。
ところが、小林先生の中では、すでに先生も我らも、同格で、剣友会で子供達の指導にあたっている。
そのように思ってらっしゃったようで、度々、「先生」と1段上げる僕らと、同格なのだと並列に物事を考える小林先生との中でお互いを尊重・敬愛し合戦みたいな会話になったものでした。
自分の教え子を、成長したと認め、喜び、同列と見なす先生の度量や器の大きさは、やはり、僕らの目指す師匠(せんせい)でした。
先生、見てらっしゃいますか?聞こえてますか?
また、先生と、お話したいです。先生と一緒に、剣道したいです。しかし、叶いません。
こんな時、先生だったらどう思われただろうか。先生だったら、どうしただろうか。そんな風に自問自答する時、僕らは、瞼の中で、先生とお逢いする事が出来ます。思い出す事が出来ます。
数多く、先生から言われた言葉、教えて戴いた事、先生を見てきて、傍で過ごさせて頂いて、記憶の奥底に先生の魂を受け継いでいます。
師匠(せんせい)への感謝を忘れずに、一瞬一瞬、一日一日を、基本を忘れずに真っ直ぐ歩いて行こうと思います。
小林栄一師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
平成23年6月4日 午前4時32分 当会会長 小林栄一先生(89歳)ご逝去
我らが師 小林栄一先生に捧ぐ
ふとした瞬間、先生の穏やかなお顔が瞼に浮かぶ。
もう、お話出来ないのだな。笑って頂けないのだな。叱られたり出来ないのだな。
寂しい限りです。
後年、先生と面を着けての稽古を戴く機会は数少なくなってしまったけれど、教わった基本通りに真っ直ぐに攻め入り、打突を放つ。
若く、速く、遠くから放つ僕らの打突は、先生の面や小手を叩くことが出来る。
それでも、当たってしまうから詰まらない。とは思わない。
時間の限り、真剣に、先生への打突を狙う。
「小手なりっ!」「胴!!」
先生の竹刀が走る。
打たれた。この打突も、良い感じにスピードも有り、真っ直ぐに攻めての打突だったのに、「パカンっ」という乾いた音のする見事な打突。
参った。さすが、師匠(せんせい)だ。やはりまだまだ僕らの敵うところでは無いのだ。
稽古を戴く度に、毎回そう思ったものだ。
背が高く、ダンディーだった先生。胴着・袴や防具の着装にはよく注意もされたし、手ずから直されたりもした。
剣友会の創立30周年、40周年の記念大会では、紋付袴で演武をやらせて戴いたが、この紋付袴の着け方もなかなかに難しい。
やはり、先生に教わり、面倒を見て頂いた。
ある日、道場連盟の賀詞交歓会に出席する先生のお供をすることになった。
先生はキチンとした正装をされており、僕らはジーパンはさすがにマズイと、正装っぽい私服で臨んだ。
結果・・・怒られた(^^ヾ
服装や見た目も、その人の品格を表すもの。その場には、その場に相応しい格好が有る。
剣友会では、小林先生が先生。僕らも、先生と呼ばれる年齢になってしまった。
僕らの中では、頂点に小林先生という、僕らに剣道を教えてくださった先生が存在しており、僕らはその1段下で、先生の下で自己の稽古と、指導を学ばせて戴いているという感覚なのだ。
ところが、小林先生の中では、すでに先生も我らも、同格で、剣友会で子供達の指導にあたっている。
そのように思ってらっしゃったようで、度々、「先生」と1段上げる僕らと、同格なのだと並列に物事を考える小林先生との中でお互いを尊重・敬愛し合戦みたいな会話になったものでした。
自分の教え子を、成長したと認め、喜び、同列と見なす先生の度量や器の大きさは、やはり、僕らの目指す師匠(せんせい)でした。
先生、見てらっしゃいますか?聞こえてますか?
また、先生と、お話したいです。先生と一緒に、剣道したいです。しかし、叶いません。
こんな時、先生だったらどう思われただろうか。先生だったら、どうしただろうか。そんな風に自問自答する時、僕らは、瞼の中で、先生とお逢いする事が出来ます。思い出す事が出来ます。
数多く、先生から言われた言葉、教えて戴いた事、先生を見てきて、傍で過ごさせて頂いて、記憶の奥底に先生の魂を受け継いでいます。
師匠(せんせい)への感謝を忘れずに、一瞬一瞬、一日一日を、基本を忘れずに真っ直ぐ歩いて行こうと思います。
小林栄一師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
古き習慣
2010.12.31
12/29、床屋に行きました。
母から、「少し伸びて来たから行ったら?」と、言われたので行きましたが、いつもなら、あと半月後くらいが切りに行くタイミング。
しかし、特に反意無く、床屋に行きました。
新年を迎えるにあたり、年末までに身奇麗にする。
これってお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さんの時代以前からの習慣と言うか、文化なのでは無いかな?
大掃除は、学校でも会社でも自宅でも、行う年末の鉄板行事。
年末には自家用車も洗車する人が多く、ガソリンスタンドも激混み!
元旦には朝風呂で身を清めてから新年の挨拶をします(管理人宅だけか?)
当たり前の感覚でいたけど、時代は流れ、最近はそういった感覚も少しずつ薄れ始めているのかな?
床屋さんも言っていました。
昔は、12月15日~31日までお客さんが集中し、逆に1月にはほとんどお客さんが居ないくらい、それくらい年末に床屋に来る人が多かったと・・・。
まあ、良し悪しで、上記の習慣・文化が薄れた事により、集中してお客さんが来る事も和らいだけど、1月もそこそこ平均してお客さんが来てくれるらしい。
だから、悪い面ばかりでは無いのかも知れません(^^)
先日、中学生に「年末は年賀状も書かなくちゃいけないし、忙しいよな!」と、言ったところ・・・
「年賀状は来た人にだけ出すので、年末は忙しくないです!」と、答えが返って来ました。
「ええっ!学校の担任の先生や、小林先生にも年賀状、書いていないの???」
管理人が子供の頃は、母に字が汚いと激怒されながら、必死に年賀状や暑中見舞いを書いていたものでした。
床屋さんのお子さんも、同じく、来た人にだけ書くのだと聞きました。
相手も同じく来た人にだけ出すのだとしたら、少しずつ、賀状のやり取りなど、無くなって行くのでしょうね・・・。
そう言えば、管理人のから出している子供への年賀状は2~3枚なのだと、パソコンの住所録を見直して、少し驚きました。
管理人は剣道関係の先生方や職場など、結構出すので、来ないなら来ないで楽では有るけど、時代は変わったのだな~と実感・・・。
さらに、とある中学生の立礼を見ていて、ゆっくりした礼、止まる時間は2~3秒、また戻りもゆっくり。
「・・・礼ってのはパッと礼してしっかり止まり、またパッ戻るものなんじゃ無いか?」
「挨拶とは、一挨一拶(いちあいいちさつ)という禅宗の問答から来ている言葉なのだ」
* 一挨一拶(いちあいいちさつ):「挨」は心を開くとか接近する、「拶」はせまる、近づくという意味
ここまで話して、問答と言うのが分かるだろうか・・・。現代の子には問答を説明する分かり易い例えが無い。
管理人が子供の頃は、「一休さん」で問答をするシーン(「そもさん!」「せっぱ!」)が有りましたし、映画「ファンシィダンス」(本木雅弘/鈴木保奈美)で本木雅弘扮する坊さん役がやはり問答をする場面が有りました。
これらを観て無い子供達には、問答と言う言葉も分かりづらいでしょう。
さて、問答とは、師が弟子に、その成長を確認するため、質問を出し、それに答えるというものです。
「そもさん(問題を出すよ?)」
「せっぱ(お答えします)」
弟子が修行によりどのレベルまで来ているか、またはその日の体調はどうなのか、そういったことを問答により感じ取る。
それゆえ、師匠の質問に対して、間髪置かず答えるのが問答のやり取り。
そこから来たのが挨拶なのだから、ゆっくりのんびりの礼では違うのでは無いか・・・。
まあ、そんなこんなな年末の出来事を通し、昔の習慣や文化が薄れて来てるのだな~と実感した2010年12月でした(^^)
「一休さん」「赤胴鈴之助」「六三四の剣」は放映して欲しいですね(^^)
上記を子供達に強制するつもりは皆無です。
ただ、こうした事が有り、こうした意味が有る。それはいずれ機会が有れば伝えようと思います。
12/29、床屋に行きました。
母から、「少し伸びて来たから行ったら?」と、言われたので行きましたが、いつもなら、あと半月後くらいが切りに行くタイミング。
しかし、特に反意無く、床屋に行きました。
新年を迎えるにあたり、年末までに身奇麗にする。
これってお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さんの時代以前からの習慣と言うか、文化なのでは無いかな?
大掃除は、学校でも会社でも自宅でも、行う年末の鉄板行事。
年末には自家用車も洗車する人が多く、ガソリンスタンドも激混み!
元旦には朝風呂で身を清めてから新年の挨拶をします(管理人宅だけか?)
当たり前の感覚でいたけど、時代は流れ、最近はそういった感覚も少しずつ薄れ始めているのかな?
床屋さんも言っていました。
昔は、12月15日~31日までお客さんが集中し、逆に1月にはほとんどお客さんが居ないくらい、それくらい年末に床屋に来る人が多かったと・・・。
まあ、良し悪しで、上記の習慣・文化が薄れた事により、集中してお客さんが来る事も和らいだけど、1月もそこそこ平均してお客さんが来てくれるらしい。
だから、悪い面ばかりでは無いのかも知れません(^^)
先日、中学生に「年末は年賀状も書かなくちゃいけないし、忙しいよな!」と、言ったところ・・・
「年賀状は来た人にだけ出すので、年末は忙しくないです!」と、答えが返って来ました。
「ええっ!学校の担任の先生や、小林先生にも年賀状、書いていないの???」
管理人が子供の頃は、母に字が汚いと激怒されながら、必死に年賀状や暑中見舞いを書いていたものでした。
床屋さんのお子さんも、同じく、来た人にだけ書くのだと聞きました。
相手も同じく来た人にだけ出すのだとしたら、少しずつ、賀状のやり取りなど、無くなって行くのでしょうね・・・。
そう言えば、管理人のから出している子供への年賀状は2~3枚なのだと、パソコンの住所録を見直して、少し驚きました。
管理人は剣道関係の先生方や職場など、結構出すので、来ないなら来ないで楽では有るけど、時代は変わったのだな~と実感・・・。
さらに、とある中学生の立礼を見ていて、ゆっくりした礼、止まる時間は2~3秒、また戻りもゆっくり。
「・・・礼ってのはパッと礼してしっかり止まり、またパッ戻るものなんじゃ無いか?」
「挨拶とは、一挨一拶(いちあいいちさつ)という禅宗の問答から来ている言葉なのだ」
* 一挨一拶(いちあいいちさつ):「挨」は心を開くとか接近する、「拶」はせまる、近づくという意味
ここまで話して、問答と言うのが分かるだろうか・・・。現代の子には問答を説明する分かり易い例えが無い。
管理人が子供の頃は、「一休さん」で問答をするシーン(「そもさん!」「せっぱ!」)が有りましたし、映画「ファンシィダンス」(本木雅弘/鈴木保奈美)で本木雅弘扮する坊さん役がやはり問答をする場面が有りました。
これらを観て無い子供達には、問答と言う言葉も分かりづらいでしょう。
さて、問答とは、師が弟子に、その成長を確認するため、質問を出し、それに答えるというものです。
「そもさん(問題を出すよ?)」
「せっぱ(お答えします)」
弟子が修行によりどのレベルまで来ているか、またはその日の体調はどうなのか、そういったことを問答により感じ取る。
それゆえ、師匠の質問に対して、間髪置かず答えるのが問答のやり取り。
そこから来たのが挨拶なのだから、ゆっくりのんびりの礼では違うのでは無いか・・・。
まあ、そんなこんなな年末の出来事を通し、昔の習慣や文化が薄れて来てるのだな~と実感した2010年12月でした(^^)
「一休さん」「赤胴鈴之助」「六三四の剣」は放映して欲しいですね(^^)
上記を子供達に強制するつもりは皆無です。
ただ、こうした事が有り、こうした意味が有る。それはいずれ機会が有れば伝えようと思います。
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