2012.6.25
剣道を修行する上に、種々の目標を立てることができようと思う。
昔から「大強速軽」ということがある、これなども誠によい教えで、大きい、強い、早い、軽妙な剣、それぞれ修行の目標となるものである。
すなわち、この意味から「気品」ということも剣道修行の大切な一目標になろうかと思う。
強いということも、勿論重要なことであるが、強いだけでは物足りない。
「強い剣道」であると共に「気品ある剣道」でありたいものである。
あの人の剣道には「気品」があるとか無いとかは、誰にも自然に感じられるものであるが、然らば、その気品とはどんなものか、という段になると、容易に言いあらわし難い。
「気」を花にたとえれば、「気品」はその薫りのようなものではあるまいか。
あるいは心を光になぞらえれば、「気品」はそのうつろいのようなものではあるまいかと思う。
花鮮やかならざれば薫りを得がたく、「光」明らかならざれば、そのうつろいを望み得ないと同様に、気品は正しい心、澄んだ気から、自然に発する得もいわれぬ気高さである。
何事によらず、真剣になっている時ほど、気高いものはなく、三味の境地、無念無想の境地に入り込んだ時ほど気品あるものはない。
結局、真剣を離れて気品は得られぬものである。
「一本の稽古」もいやしくもせず、ただ真剣、ただ一心、その心掛けがあったら求めずして上達し、求めずして「気品」ある稽古となるは、請合いである。
斎戒沐浴、神の御前に出るが如き厳粛なる気持ちをもって、日々の稽古を真剣に励みたいものです。
「端正」ということも、気品を養う上に大切な要素の一つである。
「心が端正」でなければ、気品は添わない。
徒らに勝敗に拘泥するとき、品が悪くなる。
私心、邪念にとらわれて、稽古に無理がある中は気品が添わない。
形の方面よりいうならば、稽古着(剣道着)や道具(剣道具)の着け方が正しくなければ、品は添わない。
姿勢の悪いのや動作の粗野なものも品を傷つける。
剣道は「礼に始まって礼に終わる」といわれるが、礼儀を離れて気品はない。
斯く段々に考えてくると、心も形も、共に正しく、互いに、相い助けるのでなければ、真の正しい立派な剣道、気品ある剣道となることは出来ない。
「心正しければ剣また正し」というのも、この意味に外ならないのである。
気品を養う上において「気位」というようなことも考えられる。
即ち、戦わずして敵を呑む「気位」、遂には宇宙を呑吐する程の気位に至って、いよいよ気品は高まるのである。
さらに申したいことは、剣道を単なる「竹刀打ち」と考えている中は、本当の気品は生まれないということである。
この道は「天地自然の理法」に貫通する至高の大同であることを悟って修行の上にも理想をもって進むことが肝要である。
理想ある剣道と、然らざる剣道とでは、気品の上にも、「天地雲泥」の差が生じてくる。
しかし無理に気品をつけようと気取ってみても本当の気品にはならない。
気品は朝に求めて夕に得られるものではない。
絶えず心を練り気を養い、心と技とが進むにしたがって、自然に備わるべきものである。
奥ゆかしき気品を漂うところ、人格そのものに高き香り薫(くん、カオリグサ)じ、明るき光りうつろい、誰しも自ら湧き起こる尊敬を禁じ得ないものである。
折れず、曲がらず、鉄おも両断する切れ味と、にえ、におい、言うに言われぬ気品をもつ名刀の如く、願わくば、剣道においても「強さ」と「気品」の、両者を併せ得たいものである。
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